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絹川グループ
トップ絹川代表 石川の文化人と語る>2007年3月 中町進さん
 

絹川代表 石川の文化人と語る

中町 進さん   日本画家 日展会友 

聞き手●絹川グループ代表取締役社長 絹川善信

モチーフの本質との取り組み

-景色の中に秘めた禅問答-

「創作のはじまりはスケッチ」

絹川 ● 妙義山は非常に力強い作品ですね。日本画でこれだけ力強い絵はなかなか見かけませんね。

中町 ● この絵はほとんど現場の写生に近い制作で、大雨になる雲と妙義山のダイナミックな風景を描いたものです。何十枚もスケッチしているうちに、だんだん構図や構成が整ってきて想う作品になりました。僕自身も好きな作品です。

絹川 ● 絵を描くときは構図が全てだと思います。中町先生が絵を描かれるときに大事にしていることは何でしょうか?

中町 ● 僕は絵の基本は構図だと思います。構図で作品の出来が90%決まります。とにかく生のものを描く現場主義が大事だと思っています。私は写生派なのでスケッチから発想をもらいます。絵を描くときは写生したものをそのまま描くのではなくて、一度時間を置いてから描くといいアイディアが浮かんできます。現場にキャンバスを持っていくと余計なものまで描いてしまうので、最近は油絵の人にもスケッチを薦めています。スケッチを何枚も描いて創作していくと成果が出てくるので嬉しいですよ。

絹川 ● 先程拝見させて頂いたスケッチ集の中に、ライトグリーンの雲が鮮やかな桜島の風景がありましたが、意外な色で思わずハッとしました。この絵にはとても合っていますね。

中町 ● 同じ場所で次々と描いているうちに、「ふっ」と空が緑色に見えたんです。よく桜島は七色に変わると聞いていましたが、その緑色が見えたときに、桜島って本当に七色に変わるんだと思いました。また違う景色が見れるかもしれないと思い、何度も足を運び、桜島だけで百何十枚書きました。

妙義山 60号 2003年

絹川 ● いいと思う一瞬を捕らえるのが絵を描く楽しさでもありますよね。ちなみに、スケッチは1枚仕上げるのにどのくらいお時間がかかりますか?また、中町先生が感じるスケッチの魅力やこだわりなど教えて下さい。

中町 ● スケッチは大体1枚1時間で仕上げます。多いときは7〜8枚くらい描いて、そのうち6〜7枚は同じ場所で描きます。スケッチをしているときは、浮世から離れて優越感に浸っている時間です。景色と対峙しながら、今描いているものが世の中に一枚だけだと思うと、このうえなく嬉しい気持ちになります。スケッチはデフォルメしたり面白おかしく描いています。そのときにしか起こらない偶然を楽しめるのも写生の魅力ですね。僕が現場にこだわって絵を描くのは、師匠である池田遙邨先生の影響が大きいです。

桜島(スケッチ) 1973年

絹川 ● 池田遙邨先生にはいつ頃師事されたのですか?

中町 ● 昭和27年に金沢美術工芸大学を卒業して、北國新聞社へ入社して働く傍ら、昭和32年に京都にいらっしゃる先生の青塔社へ入塾し、絵の勉強を行いました。池田先生は京都の巨匠・写生の鬼と呼ばれていまして、毎日何十枚と絵を描いているような人でした。とても優しい先 生で、池田先生から叱られたことはなかったのですが、優しすぎて逆に叱られているような気持ちになるんです。先生のような人とご縁があってから、優しさの中に厳しさを探さないといけないという、何か禅問答のようなものが自分の絵描きとしての筋にずっとあるように思います。

「生活苦と闘った黒の時代」

絹川 ● 中町先生は京都で「黒の中町」と呼ばれていたそうですが、先生の描かれる黒には情緒やあたたかさがありますね。スケッチを見ても、黒で描かれた上に明るい色を重ねて、その上からまた黒を塗って…深みがあって、非常に品のいい影だと思います。

中町 ● 自分ではよく分かりませんが、黒に懸けた時代がありました。僕は若いときに親に縁がなかったもので、学生の頃はお金がなくて三食の食事も満足に食べれない生活をしていました。ギター片手に飲食店を回ってお金を稼いだりして、一日生きていくのが精一杯でした。到底高い絵具は買えませんでした。そこで、黒や黄土色やこげ茶などの安い絵具で、黒い絵ばかり描いていたんです。岩絵具で描いた水墨画みたいなものですね。それを池田先生に認めて頂いて、京都で黒の中町と呼ばれるようになりました。当時にしてはめずらしい画風だったので、親戚や周りからは何で色のある絵を描かないんだと言われていました。僕はしっかり描いているつもりだったけれど、今思うと不器用な絵を描いていたのかなと思います。

絹川 ● それは大変なご苦労をされたのですね。

中町 ● 今思えば、随分酷い生活をしていたと思います。生活苦のときは、日本画で一番高価な群青色(藍銅鉱を粉末にしたもの)を夢のように憧れていて、いつかは群青を使って絵を描くぞ!とずっと思っていました。群青は美大の教員になり給料をもらってからやっと買えるようになりました。手に入ったときは嬉しくて仕方なかったですよ。買えたときに使わなきゃと思って、真っ青な絵を描きました。それから群青の作品が15年続いて、その後はヨーロッパの街並の風景が2〜3年続きました。この50年のうちに作風は3回ほど変わっています。意識的なものではないですが、生活と共に変わっていったんだと思います。

絹川 ● やはり、中町さんにとって黒は特別な存在でしょうか?

中町 ● 今でもほとんど黒で仕上げます。黒に取り憑かれた名残りですかね。人に教えるときも黒を持ってきたらと言ってしまうほど、黒色は極めつけなところがあります。あの苦しい黒の時代があったからこそ今の私がいるのだと思います。

「おぼろ夜」 1984年 第16回改組日展

「暮るゝ」 1958年 第1回新日展

「自分の核に迫った作品を」

絹川 ● 中町さんが絵を描いていて一番嬉しいときと、一番辛いときを教えて下さい。

中町 ● 単純に、額入ができたときが一番嬉しいです。額に納めるのが早かろうが遅かろうが嬉しさは変わりません。商品だったらサインをして判を押して作品が仕上がったときが嬉しいです。一番辛いのは、絵を描いているときです。絵描きの仕事ってこんなに苦しいものかと思います。ある意味ずっと葛藤しているし、一点ではいつまで経っても楽ではありません。でも、ずっと画家生活ができるなんてこんな幸せなことはないと相反する気持ちもあるのです。きっと、制作のスタートから額装するまでの全部の時間が僕にとっては真剣なんじゃないかなと思います。

絹川 ● では、最後になりましたが、中町先生がこれから描きたい絵や挑戦したいことなどお聞かせ下さい。

中町 ● 先のことに答えを出すのは難しいですが、生意気なことを言えば全人格を駆使した作品を作ることが目的です。この歳になったら変な野心はありません。画家生活50年を経て、オリジナリティーというか、自分を作るいい時期がきたなと思います。親と別れ、苦労した学生時代からがむしゃらに生きてきて、周りにたくさん迷惑もかけてきたけれど、これからは少しでも正直な自分でいたいです。そして、誰かの絵の真似じゃない、本当の自分の絵を描きたい。一つでも多くいい作品を残していきたいです。

絹川 ● これからも素晴らしい作品を世の中に出しつづけて下さい。本日はお忙しい中ありがとうございました。

「午後」 2000年 第32回改組日展

 

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